春草通りについて

明治の日本画を代表する飯田の偉人、菱田春草の生誕地が仲ノ町にあります。平成27年3月に菱田春草生誕地公園が整備され、この生誕地公園がある通りが「春草通り」と名づけられました。この春草通りは、昭和22年の飯田の大火でも大半が焼け残った歴史的に見ても大変重要な通りとなっております。「春草通り」特集ページを制作しましたので、是非ご覧ください。下記のマップの①~⑰までの名称をクリックすると、写真と共に詳細をご覧頂く事も可能です。

春草通りって橋北のどこにあるの?



春草通りの景色をご覧下さい。平成30年に整備された石畳の舗装が趣きがありますね。この石畳は単に石を並べていったのではなく、舗装に切り込みを入れて石畳「風」にしたもので、費用面もそれなりだとか・・・。春草公園ができ、舗装面も整備され美しい街並みに歴史ある建造物に時間を忘れゆっくり歩いてみるのも良いですね。


上記マップの拡大図。春草通りの詳細をご覧ください。

※マップ上で、所在の名称をクリックすると詳細がご覧いただけます。

春草通り 1ルーテル幼稚園 3自彊社の碑 4ウェルネスタウン丘の上  5旧高野医院 6下伊那教育会館 7安東家屋敷 8旧黒須家の門 9加納家の紅梅 10菱田春草生誕地公園 11春草の郷 12柳田家の門 13糸桜 14普門院跡 15天満宮 16正一位五郎稲荷 17旧飯田測候所本庁舎

<菱田春草略歴>

菱田 春草(ひしだ しゅんそう)(1874~1911)
本名:三男治(みおじ)
1874年(明治7年) 飯田・仲ノ町生まれ。
1890年(明治23年) 東京美術学校(現:東京藝術大学)に入学 
1898年(明治31年) 日本美術院の創設に参加
1903年(明治36年) 横山大観らとインドへ赴く
1904年(明治37年) 大観らとアメリカへ渡り、ヨーロッパを経て帰国
1906年(明治39年) 日本美術院の五浦(いづら、茨城県北茨城市)移転とともに 
          同地へ移住、大観、観山とともに制作 
1908年(明治41年) 眼病(網膜炎)治療のため、東京へ戻る
1911年(明治44年) 9月、腎臓炎のため満36歳で死去

<代表作>

  • 落葉
  • 黒き猫 ほか

(※春草の作品は当HPで掲載する事はできませんのでご容赦下さい。)


平成27年、仲ノ町に整備された「菱田春草生誕地公園」

【春草かるたについて】
令和3年に春草没後110年にあたり、飯田市美術博物館で特別展が開催されるなど改めてその功績を振り返る1年となりました。春草生誕地である”橋北地区”では春草かるた制作実行委員会を立ち上げ、読み札募集などの期間を経て、R4年9月に完成しました。

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