三大災害について

昭和22年の飯田の大火、昭和34年の内山煙火工場の爆発。そして昭和36年の三六災害とこの橋北地区を襲った大災害を風化させることなく、大事な教訓として後世に残すべき記録として三大災害特集ページを制作致しました。
橋北まるごと博物館研究会の皆さんが製本された「橋北を襲った三大災害の記憶」の冊子版には、当時の新聞記録や被災者の声など当時の様子が更にわかるものとなっておりますが、ここでは概要などを一部抜粋しお届けします。

「飯田大火について」

<概要>

・発火時刻 昭和22年4月20日(日) 午前11時40分
・発火場所 飯田市大字飯田上常盤町
・発火原因 煙突の火の粉
・風向、風速 南風、発火当時6m、平均10m
・気温 33℃
・消失面積 202,000坪(飯田市街地の8割)
・罹災戸数 3,577戸
・罹災世帯数 4,010世帯(飯田市の全世帯数6,500世帯)
・罹災人口 17,800人
・被害額 約15億円(昭和22年当時)
 (※伊那史学会 伊那2007年3月号より)

<経過>(「飯田・下伊那の災害」より)

 1947年4月20日日曜日。飯田市はかつてない大火にみまわれました。この日は戦後初の参議院議員選挙の日で、多くの市民は投票を終えて、花見に出かけていました。午前11時40分ごろ、飯田市扇町にある八十二銀行の裏手から出火。好天がつづいて乾燥していたところに、松川からふきあげる風速毎秒4mの風にあおられて、火の手はみるみる北へと広がっていきました。午後1時ごろ、火は本町の北まで広がり、風速はさらに増して14~15mになりました。
 飯田市は、ふだんは風は弱い方なのですが、春の移動性高気圧の発達により、南西の強い風がふくことがあります。建物のほとんどが木造で、さらに密集していたため、火のまわりは早かったのです。そのうえ、消火栓をいっせいに開いたため、水道の圧力が足りず、消化ポンプの水が火元までとどかず、初期段階での消火に失敗してしまいました。火炎はうなりをたてて空高くまいあがり、火の粉をふきあげて、はなれた場所へも飛び火していきます。
 警防団員(消防団員)約400名は、自動車ポンプ2台、手びきガソリンポンプ11台、腕用ポンプ10台を駆使し、懸命に消火につとめましたが、水が足りず、機械類が十分にはたらなかったため、手を付けられない状態となりました。家財道具をせおって道路を逃げまどう人びと、ポンプをひっぱる警防団員、それに野次馬などがかけつけ、せまい街路はごったがえしました。たいせつな品物を地下の防空壕にうめて逃げた人もいましたが、あとであけてみると、火の海は2000℃にものぼったため、衣類などはぼろぼろになっていました。
 午後4時ごろには、火元から1㎞はなれた諏訪町(桜町駅付近)まで広がり、4時15分ごろから、風向きは西風となり、火の流れは東へと向きをかえ、さらに広がっていきました。風は夕方にはおさまり、夜8時ごろになってようやく延焼の危険がなくなりました。
 この火事により、市街地の半分60万㎡が焼けてしまいました。焼失した家は3577軒、罹災した人は1万7778人、死者は3人でした。

※「橋北を襲った三大災害の記憶 橋北まるごと博物館研究会」抜粋

「内山煙火工場爆発について」

<概要>

・発生日時 昭和34年5月29日 午後2時26分
・発生場所 下伊那郡上郷村別府 内山煙火製造工場
・風向、風速 晴れ、北西の風 3.2m
・気温 26.7℃
・湿度 36%
・死傷者 死者7名、重傷者7名、軽傷者83名(以上は病院で手当てを受けた人数)
・家屋被害 全壊14戸、半壊74戸、軽損1,959戸
・被災人数 9,276人
・被害額 94,677,000円

<経過>(飯田市消防団発行「飯田消防の歩み」より抜粋)

 盆用の煙火及び外国よりの発注も多く、工場は多忙で、半製品等も多かった。当日は好天のため各工場棟の間の空地には、数百発の仕上がった煙火が、天日乾燥中の状況であったため、誘発し、火薬庫、製品倉庫がつぎつぎと爆発し、大惨事となった。工場9棟のうち、8棟は爆発により吹き飛び、跡形もなくなった。
 爆風により浜井場小学校の窓はメチャクチャとなったのをはじめ、周囲160~170m以内の66戸は全壊または半壊、もしくはガラス窓の破損、壁のヒビ割れ、崩落など相当の損傷を被った。500m程離れていた下馬場町栗原写真館(当時)でも、爆発地へ向いた窓ガラスの全てが割れ落ち、二階のスタジオ部分は強化ガラスを使ってあったため割れなかったものの、ヒビが入り、今でも補強されて、現存している。更に、追手町三宜亭でも新館のガラス約30枚が割れた。

※「橋北を襲った三大災害の記憶 橋北まるごと博物館研究会」抜粋

「三六災害について」

<経過>(昭和36年6月梅雨前線豪雨)

 この年(昭和36年)は6月中旬までは雨の少ない地方が多く、水不足であった。23日に台風が北上すると共に南海上にあった梅雨前線の活動が活発しながら北上、24日から本州南岸の停滞に伴い23日から降り始めた雨は、26日から集中的な豪雨に変わり27日には降雨量がピークに達した。飯田市ではこの日一日で325㎜の降雨量を記録(飯田測候所観測を始めた明治31年以来最大雨量)、6月の平均降雨量が230㎜であることからしてもその雨量の異常さは想像を絶するものでした。14日間の積算降雨量は1018㎜に達した。
 27日の朝から急激に増水し、夜半から鉄砲水が数回押し寄せ、全域にわたって両岸が削り取られて川幅は倍近く広がり数多くの住居・工場が流失した。

(「昭和36年梅雨前線豪雨罹災者名簿本庁の部」市民課資料係 (罹災者調書決定報告7月6日) より作成 )

<橋北地区7名の犠牲者>(飯田・下伊那では10名の犠牲者)

 28日0時30分頃、突然大きな鉄砲水が押し寄せ、大門町野底橋上の土場で水防作業にあたっていた七人が建物もろとも流され行方不明となり、付近一帯で作業に従事していた人たちに大きな衝撃をあたえ、悲しさ恐ろしさでますます不安がつのるばかりでした。
 数日後この行方不明の遺体数体が国鉄飯田線野底橋に出来たダムの水が引けた後、流木と土砂の間から、捜索していた人たちによって発見され、変わり果てた姿に絶句、涙をさそった。
(飯田消防の歩みより抜粋)

※災害慰霊碑と7人のお地蔵様

<浜井場小学校、飯田風越高校被害を受ける>

 川端に面していた浜井場小学校の校庭の一部が流され、校舎の土台下までえぐり取られた。上流側にあった風越高校の運動場の一部が流失した。
 自衛隊、両校の職員の懸命な水防作業(うしを10カ所余り組立)で濁流の流れを変えることが出来、校舎は事なきを得た。

<浜井町 市営住宅流失>

 1947年(昭和22年)飯田大火で住宅を失った被災者が今宮町に建設された仮設住宅に居住していましたが、今宮球場を作るため、浜井町の市営住宅に転居していましたが、大火・三六災害と被災された。

<野底川の氾濫 東中央通りの密集地を直撃>

 野底川の西は飯田市ですが、蟹江医院周辺は、上郷地区に有った、三六災害の前までは蟹江医院の西側を流れていた。災害後は加賀沢橋から松川合流点まで現在の川筋の流れに変えてしまった。
 27日の夜12時過ぎ野底川が氾濫し東中央通り、城東(当時天王原)西鼎地区を土石流が襲った真夜中でしたが、月が出ていたため多くの人が土石流を見ていた加賀沢橋から氾濫した土石流は、現在の川筋と東中央通り方面、永代橋方面の三筋にわかれた。田畑を埋め尽くして矢崎まで達した。
 東中央通り、西鼎の人家の密集地を直撃し、樹木を打倒し家を突き破り道路を横切り、所かまわず荒れ狂って流れ、またたく間に一階の屋根近くまでに土砂に埋まり、あたり一面は岩石と流木の山で河原となり廃墟と化し近くにあった汚水処理場も完全に埋まり運転を停止した。東中央通り付近はこのような大惨事であったが、二人の逃げ遅れた人がいたが無事救出された。人命にかかわる事故のなかったことは不幸中の幸いであった。

<谷川公園の大穴(現中央公園)>

 公園の地下を流れる谷川が27日頃から決壊し始めた、増水で崩れ落ちておよそ直径50m、深さ20mの大穴があき、谷川線を削り取り国道151号線は通行不能となった。
 この災害で下流にある木造倉庫が危険となり、消防車を付近におきこれを焼却して取り除く異例の作業が行われた。

※「橋北を襲った三大災害の記憶 橋北まるごと博物館研究会」抜粋

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