昔の浜井場の記憶~施設面編~

皆さんこんにちは。

橋北地区基本構想基本計画推進委員会 第二分科会リーダーの熊谷です。今日は、私が小学校の頃の浜井場小の様子をご紹介します。きっと今とは全然違うところもあると思います。

まず大きく違うのは校庭への下り坂。あれは芝生の土手のところで、今でいうブランコ横の小さい鉄棒あたりへ向かって下りてきていました。その脇には登り棒が5本ばかりあったでしょうか。坂道とこの登り棒の間には大きな木が植わっていたかと思います。(何て木だったかな~?)

現在の下り坂の真下あたりには「土俵」がありました。たまには相撲もやっていましたね。本格的な土俵でしたよ。その脇には丸太にタイヤがくっついていました。私は、そのタイヤを野球のバットで叩いて練習をしたりもしていました。たまに跳ね返りが強くて、鼻にぶつかり鼻血が出たのは言うまでもありま・・・いや、力強いスイングだったという事、、です!
確かあの辺にトイレがあったような・・・。

滑り台とブランコは上庭にありました。これは割と最近になって現在の所(下庭)に移動してきました。昔は滑り台側が、少年野球のホームベースで、野底川方向に向かってホームランが打てるか!?競ったりしていました。

円筒校舎には1~3年。本館には4~6年。各学年2クラスづつ。人数は当時1クラス35名づつくらいでしたかね。(S59年の入学年当時)

皆んな少年野球の「橋北スポーツ少年団」に入っていて、1学年15人くらい入っていました。当時はバレーボール教室と合わせて1つの団でしたから1学年につき野球・バレーで20~30人規模。4年以上の入団制限があったほどです。子供が多かったんですね。私たちの頃から3年からの入団制限に拡幅されたんだっけか??上級生の大半がやっている野球というスポーツにはマジで憧れていました。本当に格好良くみえたので、そこから私の野球人生もスタートしています。6年時は私は団長&キャプテンとして全員を引き連れての合宿とか良い思い出です。

今でも、「橋北やってた??」とかって会話があればきっとそれは、「少年野球」か「少女バレー」かスポーツ少年団に在籍していましたか??って意味だと思います。今でもたま~にそういう単語を聞くんですよね。「橋北=スポ少」の略でもあるんです。橋北あるある、ですね!