その他の歴史について
「飯田創造館」
飯田創造館は、県民の芸術文化活動に参加 する機会を提供するため、「創造の森」として昭和54年(1979年)12月1日に飯田風越高校跡地に開館した。
また、分野別の専用室化、展示室の面積拡大、利用者の休憩・交流スペースの確保など施設の充実を図るため増築され、平成12年(2000年)4月1日供用を開始した。
敷地には飯田風越公園も併設される。
■敷地面積:18,043㎡
■建物規模:鉄筋コンクリート 地上4階一部3階(増築棟)
○建築面積 780.47㎡
○建築延面積 2,454.17㎡
令和4.10月に飯田警察署建替えの発表があり、同時に飯田創造館の今後の閉館も伝えられました。この橋北びよりでは、閉館後も飯田創造館の情報は残します。又、R4.12月に改めて創造館の様子、桜町近辺の様子も若干ではありますが撮影しました。
いつかこのHPを見て懐かしんで頂けるように・・・
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「天下の糸平邸跡」
本名 田中平八(1834~1884)
上伊那郡赤須村(駒ヶ根市)生まれで、「天下の糸平」と呼ばれた財界人の飯田の屋敷が現在の飯田警察署の敷地にあった。
「桜町駅」
大正12年8月 伊那電気鉄道の飯田~元善光寺間延伸時に桜町停留場として開業。
昭和18年8月 伊那電気鉄道線が飯田線の一部として国有化され、鉄道省(後の日本国有鉄道)の駅となる。
昭和22年4月 飯田大火で施設が焼失。
昭和22年12月 桜町駅再建(現在の駅は2代目)
昭和46年12月 荷物の取扱いを廃止。同時に業務委託開始。
昭和60年4月 業務委託終了、無人化。
昭和62年4月 国鉄分割民営化により東海旅客鉄道の駅となる。
「めがね橋」
めがね橋は、長野県飯田市、谷川に架かる飯田市道の橋。石造アーチ橋で、径間は約3メートル、石積みの長さは21.8メートル。信濃の橋百選。旧称は長姫(おさひめ)橋、谷川橋と言う。
JR飯田線・桜町駅から南下し、中央公園にさしかかる辺りで道端に立っている鋳物の欄干が本橋の目印である。橋の下を流れる谷川は天竜川水系の一級河川で、やがて松川へと合流している。この川によって飯田市中心市街地は橋北地区と橋南地区に分けられている。
近世の時代、当地には木橋が架けられていた。江戸時代初期の城絵図『飯田城図』などには欄干のある木橋が描かれているが、当時は橋南地区の堀端通り(現・銀座通り)から急坂を下って橋を渡り、また急坂を上って橋北地区の伝馬町に至っていた。
明治維新後には下伊那郡飯田町の改造と伊那街道の改修が行われ、将来的な馬車の通行も見越して、石橋が架けられることとなった。設計は今村真幸(座光寺)、施工は上郷村村民が担い手となり、その際に橋の前後にあった坂は飯田城の石垣の石と真砂を用いて埋め立てられた。石橋は1878年(明治11年)に完成し、飯田城の古名である長姫城から「長姫橋」と名付けられたが、飯田市民にはその形状から「めがね橋」もしくは「谷川橋」と呼ばれた。
1947年(昭和22年)4月に飯田市街地の80パーセントを焼失する飯田大火が起こると、長姫橋付近も焼け野原となった。大火後の都市計画では長姫橋より上流側の谷川が暗渠化されて公園となり、長姫橋の石製の欄干は鋼鉄製のものに取り換えられた。また、名称も「めがね橋」と正式に改められた。
現在の写真を撮りに(R3.10月)行ったところ、現状はこのような感じに木が生い茂り、近づくことさえままならない状況となっていました。
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